はじめに
HELLO!
1980年に2人の娘(3歳と1歳)と一緒にアメリカから日本にやって来た青い目のテリーです!
子育て、食べ物、洋服、生活、季節、習慣、文化・・・日本とアメリカでは違うことばかり!
だけど、いろいろな日本とアメリカの違いのおかげで、とっても面白くて楽しい子育てができました!
外国人のママが少なかった当時の“青い目の子育て奮闘記”をどうぞお楽しみください!
プロフィール
Teri Suzanne テリー・スザーン
元「こどもの城」国際交流部長。作家。切り紙のイラストレーター。声優。日本や韓国、香港、アメリカでの講演や、NHKの番組、青山円形劇場への出演などもこなす。子どものためのバイリンガル教育教材コンサルタントとして『えほんや』『エーゴ旅行社』(iTunesアプリ)の英訳と声優を担当。
春 かけがえのない命の終わりに
春には新しい命がいろいろと登場します。動物の赤ちゃんや新緑、桜の花、新しい希望…。冬には雪がいちど地面をカバーして、そのあとに新しい命や葉っぱが力強く出てきます。春はハッピーな季節です。また、3月の初めには、子どもも親もうれしい「おひな祭り」もあります。
毎回、みなさんに、読んでニコニコしていただけるとうれしいなあと思って自分と子どもとの思い出を書いていますが、今回はライフ、つまり命の始まりの話ではなく、娘たちといっしょに経験した大切な家族の“命の終わり”について書きたいと思います。子育てのなかでは悲しい経験ですが、どんな家族でもいつか、体験する道でもありますから…。
子どもを育てるということは、まるでジェットコースターのようです。悲しいこと、すごくうれしいこと、びっくりすること、がっかりすること、悩むこと、自信を持つこと…。親は子の、さまざまな人生経験に反応すると同時に、子どもはまた、それを見て反応します。親が感じると子どもも感じるし、親が感動すれば、子どもも感動します。また、子どもは親の姿をみて、親のことを心配します。
日本に来る前には、お葬式を体験したことがありませんでした。アメリカでは、3月31日はメモリアルデイです。この日は大切な、亡くなった人のことを思い出します。アメリカでもお墓まいりはしますが、日本のようなものではなく、私の祖父母の墓は遠く離れていましたので、行ったこともありませんでした。
日本の葬儀の習慣はなにもわかりませんでしたが、私たちの大好きなおじいちゃんが亡くなったときに娘たちといっしょに体験したことは、絶対に忘れません。
娘たちはおじいちゃんが大好きでした。小さいときにおじいちゃんおばあちゃんが近くにいると、子どもは素直に優しくなるようです。また、いろいろ重要なことも学ぶと思います。
おじいちゃんはとても働き者で、厳しいけれど親切、堅牢な男でした。今思い出すと笑顔は綺麗で、お腹も大きく、まるでヒゲのないサンタさんのようでした。娘たちはけっこうおてんばでとても元気だったので、彼は絶えず心配していました。3、4歳のころ、次女は頻繁におじいちゃんの膝の上に座って、二人で楽しく水戸黄門や時代劇のテレビを見ていました。
ときどき、おじいちゃんはおばちゃんの財布からお金を取って、娘といっしょに内緒で駄菓子屋さんへ行って、おいしいお菓子を買いました。おばあちゃんは家に戻ったおじいちゃんを叱りましたが、これは二人にとって、きっとゲームのような楽しみだったのだと思います。
アメリカのおじいちゃんとおばあちゃんの感情表現に慣れ、ハグやキスがあたりまえと思っていた娘たちは、日本のおじいちゃんとおばあちゃんにも愛をいっぱいあげました。特に、おじいちゃんのハゲ頭のてっぺんにキスすることも楽しいことでした。おじいちゃんの顔がみるみる真っ赤になって、みんなで大笑いしたのもいい思い出です。
また、おじいちゃんとおばあちゃんのお誕生日や結婚記念日などのお祝いの日もとっても楽しかった。夕食をどこかに連れていって、お酒を飲んで、おいしい食べ物を食べて、プレゼントをあげて、巨大なケーキにたくさんのろうそくをつけて…。ほんとうに楽しかったです! 家に戻ると、娘たちは寝る前におじいちゃんたちにちゃんとグッドナイトキスもしました。おじいちゃんはいつも“おやすみなさい。カゼひかないでね”と言って、おばあちゃんは英語で“グッドナイト”。おもしろかったです。
そんな大好きなおじいちゃんが、あるとき、残念ながら天国へ行ってしまいました。その日、私は青山で仕事をしていました。主人から電話があり、とても驚きました。主人は保育園へ次女を迎えに行き、私は長女の学校へ。
おじいちゃんが亡くなったことを娘たちに伝えたら、二人とも泣きました。おばあちゃんと主人と娘は、おじいちゃんのからだをきれいに洗いました。アメリカではこのようなことはしないので、あとから聞いて本当にびっくりしました。
まだ小さかった娘は、大好きなおじいちゃんの命のないからだをみてさわって、そのときどんな気持ちが頭と心に走ったのでしょう。きっととても複雑で、難しいことだったと思います。今振り返ると、本人にとっては少しかわいそうだったかもしれないと思います。
お通夜は難しいですね。まず、長い時間正座しなければなりません。お寺によってやり方もいろいろと違います。お焼香などの正しいやり方は“前の方をみて真似をしてください”とよく言われますが、いろいろな方の話を聞くと、正しいやり方をしている人は実は少ないようです。もしそうであれば、前に並んでいる方が習慣を正しくわかっていないと、あとの人は真似してはいけないのではないかと思うのですが…、不思議です。また、黒い洋服を着なければならず、光っているものや金属の宝石などを着けてはダメ。しかし、そのとき私たちはお葬式のための黒い洋服をもっていませんでした。おじいちゃん自身は派手な色が大好きでしたし、私はダークグレーのスーツを持っていたので(細いシルバーの線がたくさん入っていました)それを着ました。派手な色を着るときっとおじいちゃんは喜ぶからと思い、おじいちゃんが大好きな赤い花(artificial)をつけました。
しかし、お寺に着いた私を見て、親戚はよい顔をしませんでした。でもおばあちゃんは“気にしないで、大丈夫。おじいちゃんのためだから”と言ってくれましたので、自信をもって座りました。
初めて霊柩車を見たときには驚きました。車の上にお寺があるみたい、と思いました。おばあちゃんは私と娘に“霊柩車を見たら親指を隠して! そうしないと自分の親の死に目に会えなくなるから”と言いました。火葬場にも行ったことがなく、想像もできませんでした。
火葬場に入ると目の前に壁があり、壁の前にホテルなどでよく見かけるような制服や帽子をかぶっている男性がいました。壁に大きなドアがたくさんありました。左や右の方の大きなドアの前に、私たちと同じように他の家族が立っていました。何が始まるのでしょう? みんなは何を待っているでしょう? と思いました。
急にその係の男性はおじぎをして“お別れの言葉をよろしくお願いします”というようなことを言いました。泣きながら、coffin(棺)の小さい窓をのぞいて、バイバイ、と言いました。
それから大きなドアを開け、おじいちゃんのcoffinをドアの中に入れてしまいました。娘たちと私はとても驚きました。娘たちの顔を見ると、とても心配していて、疑問がいっぱいあるようでしたが、悲しんでいる暇はありません。
みんなで2階へ行き、食べたり飲んだりしながら、おじいちゃんのからだはなくなる、と聞きました。お祝いでもないのになぜ食べるのか、なぜ飲むのか、胸が痛いのに食べたりすることがとても難しかったです。あまりにもリアルな経験で、言葉もあまり出てこなかったですね。
時間になるとまた下の階に行き、別の部屋に家族といっしょに入りました。何のために? 残念ながらお葬式はみんな忙しく、私と娘への日本のお葬式の習慣の説明はありませんでした。
おじいちゃんの姿はいなくなり、そのかわりに骨や灰となりました。娘たちの顔を見ると、二人は静かな表情をしていました。お箸をもらい、骨を取って渡しました。お葬式にこのような習慣があるから、食事のときに箸から箸へ食べ物を渡すことはダメなんですね。初めて知りました。
人が亡くなる最後まで、家族が大事にすることは素晴らしいですが、初めて体験する私たちにはとてもつらい、悲しいことでした。日本人は強いと思いました。
最後に娘といっしょにお墓へ行って、日本の習慣も学びました。お墓をきれいにすること、お水を運び、お墓にかけること。お花をおくこと、お線香をあげること…。それらをきちんとしなければならないのです。アメリカにこのような習慣はありませんが、日本人にとっては大事な習慣です。心から尊敬します。
おじいちゃんが天国に行ってから何年かあと、残念ながら主人が脳梗塞で亡くなりました。45歳の若さでした。娘たちにとっては大変な人生経験でしたが、この20年間、パパのお墓まいりには年に何回か、ずっとずっと行っています。それをみるとほんとうにうれしいです。なぜなら、小さいときにつらいお葬式の経験があっても、娘たちがパパの思い出を大事にしていることがわかるから。そしてそれだけではなく、日本の習慣を守って、尊敬し、自分のもうひとつのルーツを大切にしていることもわかるからです。