娘が2人います。1977年と1979年に、サンフランシスコの同じ病院で生まれました。同じ女の子ですが、2人の出産はまるっきり様子が違いました。

私たち夫婦は、きょうだいは仲よくしてほしいと思っていました。ですから次女が生まれたあとも、本人たちの前で2人を比べるような発言、たとえば「なぜお姉さんと同じように上手にできないの?」などの言葉は、けっして言いませんでした。きょうだいはそれぞれ、性格も行動のしかたも違います。

私には姉と弟がいました。子どものころ、親戚や先生たちに比べられた経験がたくさんありましたから、自分の子どもが生まれたら、けっして比べないようにしよう、と決心したんです。
私の姉は勉強が好きで、私はアートやスポーツ、クラブ活動の方が好きでした。性格も違い、学校での好きなことも違い、好きな食べ物や遊びもまったく違いました。姉のあとに学校に通い始めたため、先生たちはいつも、私が姉と同じようにできると期待していました。あれは本当に困りました。
高校時代のスペイン語の先生が姉のことを大好きで、私にはいつも厳しく「お姉さんはとても上手なのにあなたはなぜできないの?」と批判しました。私は私として認めてもらいたかったので、そのクラスをやめ、フランス語のクラスに変更。それからは楽しく過ごすことができました。
同じ家族に生まれても、考え方や表現の仕方、好き嫌いなどは違います。だから素晴らしいのではないでしょうか? 親がきょうだいを比べると、特に小さいときには、子どもが自分の気持ちを伝えることが難しくなると思います。

私は長い間、幼稚園で仕事をしていましたので、親たちがついきょうだいを比べてしまうという話をよく聞いていました。子どもたちがかわいそうだなと思うこともありました。お兄ちゃんはお兄ちゃん、お姉ちゃんはお姉ちゃん、妹は妹、弟は弟、という意識をもつことは重要です。でもあまり比べると、子どもの心に傷が残ります。
きょうだいのなかの子ども達も、違うからおもしろいのです。スポーツがよくできるとかできないとか、絵が上手とか好きではないとか、子どもによって本当にさまざまですが、大事なのは、子どもひとりひとりを認めること。

You are YOU!  I am ME! どうぞ比べないでくださいね!

つわりってなあに? SOY SAUCE and COFFEE

初めて妊娠したとき、私はサンフランシスコのバイリンガルのための学校にある幼稚園で、35人の5歳の子どもに授業をしていました。9月から授業が始まり、3年目。ちょうど学校を異動したところでした。
新しい校長に妊娠を伝えると「仕事をやめますか」と聞かれました。「いえ、元気なのでがんばって仕事は続けるつもりです」と答えました。「わかりましたが無理しないように。大変そうになったらお休みしてもらいます」と校長に言われました。しかし私は元気で、つわりも全然ありませんでした。
「つわり」のように気持ちが悪くなることはおかしいと思っていましたが、ただそのとき、なぜか醤油のにおいがとても苦手になりました。ある日家に帰ったとき、料理が大好きな主人が、のりと醤油を使って佃煮を作っていました。アパートのドアを開けたとたん、醤油のにおいがとてもいやだったのを覚えています。佃煮は大好きなんですが、そのときは本当に嫌いでした! 窓やドアを全部開けて、それはそれは大変でした(笑)!
次女の妊娠のときはまったく違いました。まず、自分でもびっくりするほどのひどいつわり! そのときもまだ幼稚園の仕事をやっていましたが、クラスの始まる時間が朝7時(そのときまでは8時半でした) 。オークランドの町に住み、サンフランシスコまで朝早く行きました。そのときは醤油のにおいは大丈夫でしたが、一番苦手だったのはコーヒーでした。

 FALSE ALARMS and FIRST BABY

長女が生まれたときは初めての体験なので、何度も病院へ行きました。 そのときにはお父さんやお母さんが運転して、主人は仕事場から飛んできました。でも、英語で言えばFalse Alarm。まだまだ早いと言われました。お医者さんにいつも「まだですよ! 家に戻りなさい!」と言われ、恥ずかしい思いをしました。やっと4月末に、元気な女の子が生まれました。


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長女誕生!主人とともに。

 

そのとき私の同室には、他の国のルームメイトがいました。女の子が生まれたばかりの新しいお母さんで、英語は上手ではありませんでした。私は元気だったのですぐ起きて、病院にいる3日間、自分の朝昼晩の食事を食堂に取りに行きました。お医者さんにできるだけ早く歩きなさいと言われたので、よく歩きましたし、夜中に汗をたくさんかいたので、シャワーを1日に何回も浴び、髪を洗いました。
くだものや生野菜、ミルク、ヨーグルトなどをたくさん食べていた私を見て、同室の彼女はとてもびっくりしていました。彼女の国の習慣では、くだものや生野菜、ミルクなどはしばらく食べられないそうで、お風呂も産後1ヵ月まではダメ。髪も絶対洗えません。彼女は毎日特別なスープを持ってきてもらい、それしか食べませんでした。彼女は病院からもらう食べ物を全部私にくれ、私のことをいつも不思議そうな顔で見ていました。
長女が生まれる前に幼稚園で教えて、そのあと、大学院でバイリンガルの資格をとるために週4日、大学院に通いました。長女は4月末に生まれ、大学院も5月には卒業しました! 卒業式にも娘は私といっしょに参加しました。
また、勤務していた幼稚園の子どもたちが9月から4月までいましたので、子どもが生まれたら幼稚園に戻る約束をしていました。2週間休んでから、最後の6週間、幼稚園の子どもたちを教えました。幼稚園の近くに住んでいた友達に娘をあずけて、園の仕事が終わったら早く帰る許可をもらい、娘のところに行きました。今思い返すと大変でしたが、娘と幼稚園の子どもたち、そして私にとっても大事な経験だったと思います。

SUPER BABY!!

子どもを1人生んでいると、2回目の出産は簡単と思われがちです。が、次女の出産はまた違いました。そのときは妊娠は1月から、幼稚園の仕事は6月まででした。夏休みは長く、新しい年は9月から始まります。同じバイリンガルプログラムでしたが、新しい学校に引っ越しをしたため、8月末に新しい教室へ行っていろいろな準備をしました。そのときに重い荷物を持ち上げ、お腹に少しぶつかりましたが、大丈夫だと思いました。
9月に入り、幼稚園の授業が無事に始まったある日、仕事中にお腹がとても痛くなりました。私の病院は幼稚園から歩いて5分のところにあったので、1人で行って入院しました。主人や両親も来ましたが、なんと2人目は、38時間の厳しい出産に!結局、最後に胎盤剥離が起こったため、帝王切開となりました。
ようやく部屋に戻り、最初の出産と同じようにすぐベッドに座ったり、動いたりしたかったのですが、お医者さんから「しばらく横になるように」と言われてしまいました。元気に起きたかったのですが、ひどく頭が痛かったのを覚えています。その頭痛を止めるためにドイツからのお医者さんが特別なやり方をしてくれ、やっぱりお医者さんの言う通りにするほうがいいんだなあと思いました。

次女は長女より体重はありましたが、おとなしい子でした。ですがある夜、夜中の3時にお医者さんが私の部屋に来て「次女の具合がとても悪くなり、命も危ない」と伝えに来ました。そのころサンフランシスコの町に、あるウイルスが流行していました。私は学校で仕事をしていたため、知らず知らずのうちにそのウイルスに感染していたのです! 娘も私も熱があり、娘はすぐ、新生児のICUに連れていかれました。私の赤ちゃんの命が危ないなんて! 私にはとても信じられませんでした。

娘と私は、無事にその病気を乗り越えました。私の熱が下がり、毎日何回もICUに行って、娘を抱いて話しました。保育器にお姉ちゃんの大きな写真を貼り、なかには私が持ってきたかわいいゾウさんのお人形を入れました。看護婦さんに聞いた話では、このウイルスには多くの子どもたちがかかり、大勢の子どもが亡くなりました。脱水症状も引き起こして大変だったそうです。2時間おきにミルクをしっかり飲んでいた次女は「スーパーベビー」と呼ばれ、自分で自分の命を助けた、と言われました。自分の生きる力と、それから愛する親が「生きることを信じること」は大事だと思いました。


次女と私。お祭りにて。

次女と私。お祭りにて。

 

2回目の産後は家に戻ってから、お医者さんの命令で6週間休みました。2人の大切な娘がいましたから、本当はもっと休みたかったのですが、経済的に仕事をしなければならず、まだ暗い朝5時半ごろから、幼稚園の仕事のためにサンフランシスコへ出かけました。主人は娘たちを起こして、朝食を食べさせ、保育園へ連れて行きました。午後には、私がサンフランシスコからオークランドへ、できるだけ早く迎えに行きました。
そのころのスケジュールは大変でしたが、土日は休みでしたし、冬休みや春休みは長く、特に夏休みは6月の第2週から始まっていましたから、なんとか夫婦が力を合わせて頑張りました。パパもママもいるなら、子育てを上手にするためにお互いが力を合わせることは本当に重要なことです。1人だけに任せるのはよくないと思います。

おっぱいのこと

長女は最初からだいたい、6時間おきにおっぱいを飲みました。2ヵ月間おっぱいをあげましたが、ある日の仕事の帰り、サンフランシスコの地下鉄に乗っているとき、トンネルの中で火事があったのです。電車内に煙があがり、放送などはなにもなく、とても怖かったです。やっと上に出たら、電車の外は真っ黒…! そのときには救急の案内などはなかったので、あれ以来緊急時の行動の仕方がだいぶ変わったと思います。さらに同じ週、主人と娘といっしょにサンフランシスコのでこぼこ道を走っていて、目の前に反対方向から私たちに向かって車が左に曲がり、事故に! 私たちは大丈夫でしたが、相手のかたは保険もなく、なんと車の免許もなかったのです!
地下鉄の火事と車の事故のストレスで、私のおっぱいは出なくなってしまいました。とても残念でした。

次女のときには、先述したように私も赤ちゃんもウイルスにかかったため、最初から私のおっぱいはダメ! お医者さんが、娘の頭と手に点滴をしてくれましたが、娘は自分で取ってしまったのです。しかたなくICUの看護師さんは、最初から哺乳びんを使ってミルクを飲ませてくれました。次女は2時間おきにしっかり飲みました。
元気になった私は、2時間ごとにICUへ行き、ミルクを飲ませました。自分のおっぱいでは足りなかったので、哺乳びんも使いました。家に帰り、仕事に戻ってもまだ、2時間おきに飲ませていました。夜9時、11時、朝1時、3時に起き、飲ませて、家を出る前の5時にも飲ませ、5時半には家を出て仕事に向かいました。こうした生活は次女の生後5か月まで続いたのでした。

娘たちの出産はいろいろな違いがありましたが、同じように2人を愛しています。娘たちのおかげで、娘たちに違いがあるから、私の人生は楽しく、思い出は山より高くあります。不思議なことに、出産で苦しかったことや大変だったことはあまり覚えていないんです。覚えているのは、出産の素晴らしい体験だけです。赤ちゃんが目の前に生まれて、泣き声を聞くだけで本当にありがたく、生きることに感謝しています。


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