大学時代はロスにあるカリフォルニア大学(UCLA)でアートの勉強をしました。4年生のときに日本に滞在し、一年間、国際基督教大学(ICU)で学びました。その後日本の方と結婚し、娘を2人産んでから日本に住むことになりましたが、そのときには、自分の人生が日本と、日本語や日本の文化に強い影響を受けることになるとは思ってもいませんでした。

アメリカではけっして経験できないような、さまざまなことを山ほど体験しました。生まれてからずっと、ひとつの言葉を話す家族に育った私が、2つの言葉や文化を持つ親になり、バイリンガルの世界に入るとは思いもしませんでした。日本の人と結婚したおかげで、娘たちは生まれたときから、耳からは2つの言語が入り、2つの文化と考え方にふれました。それが彼女たちの心や精神に大きな影響を与えたと思います。

また同時に、一つの言語で育った親として、責任を持って、自分の娘のバイリンガルとしての心を尊敬し、守って、理解する重要さも知ることができました。

 

娘たちは日本の保育園や幼稚園、小学校、インターナショナルスクール、そしてアメリカの学校にも通いました。学校によって英語か日本語どちらか、もしくは両方の言葉を使いました。

日本の保育園や小学校にいるときには、友達や友達の親は家にくると日本語を使いましたが、インターナショナルスクールにいるときには、英語も日本語も使いました。娘と友達が遊んでいるときの会話を聞いていると、とてもおもしろかったです。なぜなら娘はまず相手をみて、その時その時に使う言葉を自然に選んでいたからです。英語を話す子と日本語を話す子がいっしょにいるときには、まるでライトのスイッチを切り替えるように言葉を変えました。人間には、英語や日本語、スペイン語の引き出しなど、頭のなかにさまざまな引き出しがあるんだなあと不思議に感じました。必要なときに必要な言葉が出せるなんて、とても便利ですよね(笑)。

 

また、英語も日本語もできる友達と遊ぶときには、英語と日本語を混ぜながら自然に話していました。言語学の専門家のなかには、小さいうちに2つの言葉を混ぜて使うのはよくないという先生もいるようですが、私にはそうした考え方はありませんでした。両方できる子は、それぞれの言葉はもちろん、その二つの文化や考え方もよく理解しています。その子たちはごく自然に、その場面に一番便利な言い方、通じやすい言い方を選ぶのです。

たとえば、英語の「convenient」という言葉よりも、日本語の「便利」という言葉のほうが伝わりやすいと感じますし、「Happy」は「幸せ」とは少し違います。両方の言葉に慣れている子たちは、言葉の奥にある文化や深い意味を感じて話しているのです。

あるとき、娘と娘の友達とお寿司を食べに行きました。みんな社会人になり、それぞれイギリスやアメリカ、フランスなどに住んで働いていたので、東京で集まったのです。

久しぶりの再会に、みんなはとても喜んでいました。食べたり飲んだりしながら、いきいきと会話をしていました。英語と日本語の文章を混ぜながら、思いっきり話をしても通じる会話。みんなが同じ言葉の波に乗り、スムースに流れたその会話は私にとって、かけがえのないものでした。とても美しいと感じました。

それぞれが別の国に住み、自分の親は違う国(日本とイギリス、日本とアメリカ、日本とベルギーなど)に育った子どもたち。日本語と英語、もしかしたらさらにもうひとつの言葉があっても、みんなの気持ちは通じるのです。ニコニコしながら自由に広がっていく楽しそうなおしゃべりを聞いて、本当にうれしかったです。やっぱり言葉は楽しいですね!

 

最近では日本の学校でも、小さいときから英語の教育に力を入れています。が、実際には結構厳しいようですね。海外で苦労して一生懸命英語を覚え、帰国子女として日本の学校に戻っても、日本の学校で上手に英語を話すことについてよく批判されると聞きます。また、日本の学校で勉強しているバイリンガルの子は、目立たないよう上手に英語を話さないとか、家では親に英語で話すことが多いので、友達が家に遊びにくるときには英語を使わないという話もよく聞きます。みんなと同じようにしないと他の生徒とうまくいかないのでしょうか。こういう話を聞くと、本当に残念に感じます。

違う言葉をしゃべることは、はずかしいことではありません。もっと自信を持つべきだと思います。

 

世界中の人たちの多くは、自国の言葉と英語を話します。ひとくちに英語といっても発音も書き方もさまざまで、イギリス英語、アメリカ英語、カナダ英語、インド英語、オーストラリア英語などがあります。みなさんはどちらの英語が正しいと思いますか? いわゆる「正しい」英語はどこの国のものなのでしょうか。「color」と「colour」なら、どちらが正しいのでしょうか?

私がいつも娘たちに伝えていたのは「same but different,different but the same(同じだけどちがう、ちがうけど同じ)」という言葉でした。正しいか正しくないかが大事ではないのです。「同じだけどちがう、ちがうけど同じ」というのは人間にとって大事なことであり、子育てにとっても重要なことだと思います。正しいか正しくないかだけではなく、言葉は文化なのですから。

 

小さいときだけでなく、大人になった今でも、娘たちが家に友達を連れてくることは大事なことです。子どもが友達を家に呼んで遊ぶことがあれば、親も子どもも安心できますし、信用もできます。特に子どもが大きくなると、どんな友達とつきあっているのかがとても重要になっていきます。

何年か前からよく耳にするのは “playdate”という言葉です。子どもの友達の親から「遊びにおいで!」といったような表現ですね。お子さんが小さければお子さんといっしょにその人の家か公園などに行き、子どもたちが遊んでいるときに親はおしゃべりしながら子どもたちの遊びを見守る。また、親が子どもを友達の家に連れて行き、そのままあずかってもらうこともありました。

私が娘を育てていたときには “playdate”の表現はありませんでしたが、子どもたちが家に来たときには本当によく遊びました。最近、子どもが誰かの家に行くときに、どんな遊びをすることが多いのでしょうか?まさか、ゲームやiPadなどでしょうか? お互いに話をしながら、からだを使って遊ぶのが一番いいと思いますが…。

今、電車の中やレストランなどでも、子どもたちがとなりどうしに座っているのに話もせず、ゲームをやっていることが多いように感じます。親子でもそれぞれゲームや携帯に夢中になっていて、やっぱり話はしていません。全体的に会話が少ないですね。

話をすることや目と目を合わせること、心と心を通じ合わせることは、人間にとって、また子育てにとっても、とても必要な、大切なことです。私たちは山手線に乗っても日比谷線に乗っても、必ず話をしました。駅の名前でだじゃれを考えたり、車内のポスターを見て話したりしました。娘が話すその日にあったことや、考え、意見などを聞くのは何より楽しいことで、自分にとっても勉強になりました。

子どもの期間はほんとうに短いです。小さな子を育てていらっしゃる今、そういわれても信じられないかもしれませんが、本当に、あっというまに大人になってしまいます。わずかな時間のなかでも、会話は本当に大事です。

 

また、わが家では、小さいころから家族だけにわかる「コード(暗号)」を決めていました。英語と日本語それぞれにありました。つまり秘密の言葉ですね。

たとえば、子どもといっしょに電車のなかや街を歩いていたとき、酔っぱらった人がだんだん近づいてきて少し怖いな…と感じることはありませんか? そういうときにその単語を言うと、すぐに別の車両や離れた場所に移動できました。海外では日本語で、日本では英語でのお守りの単語がありましたので、大変便利でした。みなさんにも、どんな家庭にも決めておくといいと思いますよ。    

また、大きくなってからは、電話でも同じように暗号というか、家族だけには子どもの気持ちがわかるような言葉をあらかじめ決めておきました。たとえば外から、子どもが困って親に連絡をしたいときに、もし周りのひとに「困った!」といえなかったら、また「困った!」という気持ちを気づかれたくなかったら(友達の手前いいにくい、ということもありますよね)、その代わりの「助けて!」という意味の言葉を決めておくんです。

たとえば「洋服のポケットに時計を入れたまま洗濯機に入れちゃったの!」とか。周りの人が聞いても何もわかりませんが、家族にだけは「助けて!」という隠された思いが伝わるような、お守りの言葉です。

 

1980年に日本に来たとき、ベビーバギーを見かけることは多くはありませんでした。赤ちゃんはいつも、お母さんかおばあちゃんの胸のところにひもで抱っこされていました。パパが抱っこすることは本当に少なかったですね。当時、次女はまだ1歳でしたので、アメリカから背中につけるベビーキャリーを持ってきました。肩から外すとスタンドになる便利なものでした。

現在は日本でもベビーバギーが多くなり、昔と違って、抱っこするパパもふえました。ただ、今驚くのは、下りのエスカレーターに乗るとき、親がベビーバギーを自分よりも先に乗せることです。私たちはバギーを反対向きにして、ハンドルをもちながら、先にエスカレーターに乗せていました。先に乗せると落ちる可能性があります。下に親がいれば、万が一のときに子どもを守ることができるんです。

また、私たちは、小さい子をエスカレーターの階段に立たせることもしませんでした。必ず抱っこしたんです。大きくなると、必ず手をしっかり握りました。道を渡るときにも必ず手を握り、いっしょに渡りました。子どもが自分の前を歩くことはありませんでしたし、そういうときには歩くという習慣が子どもにもできていたので、子どもが先に走り出してしまうようなこともありませんでした。

 

今、みなさんは携帯電話で大変忙しいようですが、私が娘を育てていたとき、一番楽しかったのはやっぱり会話でした。子どもの話を聞くのはなにより楽しく、おもしろいことです。子どもはいつも、別な目線から地球や街、人間を見ています。大人である私にとっても、すばらしい勉強になります。

小さいころから話をする習慣があれば、大きくなってからも、親に素直に話すことができるようになるのではないでしょうか。

teri11
メールをするよりいっしょに話そうよ!