
海外で育ち、日本へ帰国した子どもたち(帰国キッズ)は、みなさんにとって身近な存在でしょうか? おそらくその事実を言われない限り、気がつくことはないかもしれません。彼らは日本人の顔をしていながらも、考え方、感じ方、ものごとの受け止め方、反応のし方、価値観など、かなり日本育ちの子どもと異なります。ひとくちで言えば、帰国当初、彼らは、日本人の顔をした外国人なのです。彼らは、みたこと、感じたこと、驚いたことを、彼らなりのつたない日本語で精一杯表現しています。
私は彼らのつぶやきを聞いて、かわいい、おもしろい、傑作だと感じると同時に、日本に対する彼らの観察力の鋭さに驚きました。そして自分たちが到底気づかない日本の一面や海外の事情が見えてきたのです。
彼らのつぶやく言葉を集めながら、ぜひ日本のみなさんとも分かち合いたいと思っています。短い表現の中に凝縮された子どもたちの発想に、考えさせられることがあると思います。子どもたちのつぶやきが、日本について、また海外について考えることのきっかけとなれば幸いです。
「神様はどうしていろんなことばを作ったのかな? どこでも同じだったらいいのにな」
(中国/7才/男の子)
みなさん、長い間「帰国キッズから見た日本」の連載をお読みいただきありがとうございました。このたび、8年間に渡る連載を100回という区切りのよいところで終了させていただくことになりました。
この連載は終わっても、帰国キッズの日本への感動・発見・驚きは、今も続いています。この先、皆さんがどのような場面で帰国キッズに出会うかわかりませんが、もし彼らに出会う機会がありましたら、どうぞ彼らをあたたかく受け入れ、ご理解、ご支援のほどよろしくお願いいたします。
さて、私は「同じことばだったらな〜」、このつぶやきをあえて連載のフィナーレに持ってきました。なぜなら、ことばは生活全般に渡って、とても重要な役割を果たすからです。
ことばは、コミュニケーションの手段であることはもちろん、子どもたちにとっては、友だちを作るとき、自分を危険や未知な世界の不安から守るとき、そして、相手に自分を理解してもらうときなどに必要な大切な道具です。
日本を離れ、海外へ行ったキッズたちは、現地のことばがわからず、クラスのみんなの中に溶け込むのに大変苦労します。しかし、がんばって海外での生活に慣れ、何年かが過ぎ日本に帰ってくると、また同じことばの問題に彼らは直面します。でも、不思議なことに、海外で受け入れてもらう時のほうが、むしろソフトランディングの傾向が高く、帰国時のほうが、カルチャーショックやトラブルなどが大きい、というのが一般的なのです。
それはおそらく、日本人の民族性が大きく関係しているでしょう。ことばは各地の方言はあるものの基本的に日本語一つです。見たり、聞いたりする文字ほとんどが日本語です。それに対して、海外の、特に多民族性の強い国では、現地のことばが第一言語でない子どもたちが周りに大勢いるので、現地のことばがうまく話せない子どもが混じってきても、受け入れる側はさほどの違和感を持たないのです。
幼少の頃から中国語の中で育ってきたコウタくんは、帰国し、日本の学校に通い始めたとき、日本語が話せませんでした。そのため、先生や友だちに自分の思いがうまく伝わらないだけでなく、授業についていくのは厳しく、いじめにもあったそうです。同じ日本人でありながら、中国からの帰国子女ということから仲間はずれにされ、いじめっこたちは、コウタくんの発音の真似をして彼をからかったそうです。
ですから、コウタくんの「どこでも同じだったらいいのにな〜」というつぶやきには、単に二つの言語を学ぶ大変さだけでない、悔しさや苦労、思いが込められていると感じます。
さらに、神様への疑問は、神様への祈りでもあるように思えます。コウタくんは、「神様、どうかいつか、人々が一つの言語を話し、互いに理解し合い、心が一つになれますように」と平和を願っていたのではないでしょうか? 帰国キッズのこのような願いが、なんらかの形でかなう日がいつかくるといいですね。
先生に向かって“あなた”と言いました。このことを、先生から指摘され、親は冷汗。
(アメリカ/6才/女の子)
娘「(母親に向かって)“あなた”が言ったんでしょ」
母「親に向かって、“あなた”はないでしょ。」
娘「だって、youは“あなた”じゃない」
(アメリカ/9才/女の子)
よく「日本語と英語のどちらがむずかしいか」ということがトピックになりますね。バイリンガルである私は、「日本語と英語では、根本的な違いが多くある」という印象を持っています。ですから、何をもって比較するかによって、日本語のほうが簡単だったり、英語のほうが簡単だったりする、と感じています。
たとえば、英語にはない漢字は、全部でおよそ5万字もあると言われています。このことを、英語を話す人に教えると、みんな「わー! それはすごい。それだけの漢字を覚える日本人は、相当頭がよいのだろう」とか「それじゃ、日本語はむずかしいはずだ」と決めつけます。
しかし、英語でも、アメリカで使われている慣用句は相当数あり、日常会話として使われています。この慣用句は、地域によって異なっていて、日本人はそれをマスターしなくてはならないので「英語はむずかしい」となるのです。
最初に書きましたが、このように日本語と英語では、根本的に違う部分が多くあります。その中でも、日本語の敬語の存在は、特に違いが大きいと思います。なぜなら、英語でも、偉い人や目上の人に対して、「Yes, Sir」というような敬意の表現を付け加えることはありますが、それ以外の文章の組み方は、老若男女、誰に対しても同じです。しかし、日本語の敬語では、文章そのものが、全体的に変わります。
そのため、海外から帰国した子どもや外国人にとって、漢字以上にむずかしいのが、実はこの敬語です。日本では、年上や目上の人を尊敬するという儒教の教えが、今なお浸透していて、それが話し方にも反映されています。敬語は、ご存知のとおり、丁寧語・尊敬語・謙遜語・謙譲語とあり、それぞれ、相手の立場などから使い分けなくてはなりません。日本人であれば、適切な敬語を使うのは当たり前のことですが、アメリカの英語においてはそのような表現がなく、その上、アメリカ文化では「人は皆平等」という概念が強調され、誰に対しても同じ話し方をするので、理解が非常に難しいのです。
敬語についてまったくわからなかったやよいちゃんは、学校の先生に向かって、「あなた」と言ってしまいました。でもそれは、先生のことを単純に「you」と考え、直訳して「あなた」と言っただけだったのです。
時々、帰国子女は、「いばっている」、「プライドが高い」などのネガティブな印象を持たれますが、多くの場合、単に日本語の表現をマスターしていないことに起因しているようです。やよいちゃんも、先生を尊敬していなかったのではなく、ただ表現法を知らなかっただけなのです。
先生に、そのことを指摘されたやよいちゃんのママは、とても恥ずかしかったそうです。その後も、彼女に、日本語に「目上の人に対する話し方があること」を理解させるのにとても苦労した、とおっしゃっていました。
「ゆっくり走っていいの?」
(イギリス/7才/女の子)
ヨーロッパ各国の高速道路での制限速度は、時速100〜130kmです。しかしドイツでは、制限有りの高速道路もありますが、基本的にスピード制限はありません。速度無制限のアウトバーン(ドイツ国有の高速自動車専用道路)は日本でも有名です。ここでは平均160〜180kmの速度で車が走行していて、中には、平気で240kmほども出して突っ走っている車もあります。BMWやベンツなど、スピードの出る高級車をたくさん生産しているドイツならではの特徴といえるでしょう。余談ですが、個人所有の乗用車には、日本のように高速道路の利用料金はありません。
アメリカ・ニューヨーク州の高速道路では、最高制限速度が65マイル(100km)となっています。さらに、このような高速道路では最低制限速度が表示されていることもあり、たいてい時速40マイル(64km)となっています。ということは、このような高速道路では、64kmより遅く走った場合、車の流れを妨害したということで、警察から忠告を受けます。アメリカの多くの一般道では、田舎道なら中心部でなければ55マイル(88km)くらい出せます。
それに対し日本は、高速道路での最高制限速度は100kmというところが多いでしょう。いったん一般道に下りると、制限速度は一気に低くなるのが特徴だと思います。それは、日本の一般道が狭い・曲がりくねっている・視界がよくないカーブが多い・歩行者やバイク、自転車が多く利用している、といったことが多いからだと思います。山が多い島国である日本では、都市計画が徹底されてこなかったという理由もあるでしょう。さらに、直線道路でも信号が多いので、町中は決して速く走れません。
このような違いから、イギリスで生まれたあゆちゃんは、日本でドライブに出かけた際、看板に「ゆっくり走ろう」と書かれているのを見て、とても不思議に思いました。そして、彼女は、「ゆっくり走っていいの?」とお父さんに質問しました。
なぜなら、生まれ育ったイギリスでは、とにかく狭い道でもすごい勢いで車が走っていましたので、「ゆっくりと走ること=人に迷惑をかけること」とあゆちゃんは信じていました。そのため「ゆっくり走ることは、後続車に迷惑なのでないか」と聞いたようです。
日本でも海外でも、多くの命が交通事故で奪われています。その多くがスピードの出しすぎによるもののようです。それらを考えると、日本各地に掲げられている「狭い日本、そんなに急いでどこに行く?」や「ゆっくり走ろう日本列島」などのスローガンのように、ゆっくり余裕を持った走行姿勢は、多くの大切な命を救っているのかもしれません。
「スネーク食べたよ」
「え? へび?」(母)
「違うよ。スネック」
「ああ、おやつね」(母)
(シンガポール/3才/男の子)
日本では、ずいぶん外来語が増えてきました。「フラストレーションが溜まる」、「リーズナブルに設定」、「ハイスペックな新築」・・・などなど。中には、「こんな言葉まで日本人の間で使われるようになったの?」と思うほどの外来語も誕生しています。この状況は、英語と日本語を混ぜて話すバイリンガルの人にとっては非常にありがたく、便利といえます。多くの英語が日本人に通じることは、バイリンガルの生活をとても楽に、快適にしてくれます。
海外で生活した日本人の子ども達は、滞在期間が長くなればなるほど、帰国後、現地の言葉を日本語の会話の中に取り入れて話す傾向があります。特に、帰国して間もない頃は、生活に密着していた現地の言葉を多用します。たとえば、「今日のリーセス(休み時間)に、デボラとホップスコッチ(遊びの一つ)をプレイしたんだよ。」というようにです。はじめは、親も子どもに日本語に慣れてほしくて、なるべく英語や現地の言葉を日本語に訳していますが、やがて親自身も「そういうボッシーな(いばったような)言い方はやめなさい」と、英語や現地の言葉を日本語の会話に交えていたりします。
どうして、そうなってしまうのでしょう。これは、多くの場合、日本語に置き換える際に、これといったぴったりした言葉がないこと、それから現地でその言葉が生活に定着しているため、あえて日本語に置き換えるより、現地語そのものを使ったほうがすぐ通じるからです。
人間は、とかく楽なほうへと進む生き物です。特に、家庭内においては、頭も心もリラックスさせて話をしたいのと思うのが自然ですので、家族との会話の中で、一つ一つの言葉をいちいち日本語に置き換えるのは億劫になってしまいます。その結果、日本に帰国して数ヵ月は、日本語に滞在国の言葉が交じった会話が続くのです。
シンガポールで英語を使って暮らしていた隼人くんは、保育園でしょっちゅう「スナック(おやつ)」という言葉を使っていました。しかも、耳に入ってくる発音が「スナック」というより「スネック」だったため、彼自身もそのまま真似をして声にしていたのです。この「snack」の「a」は、日本語の「ア」ではなく、英語の「エ」に近いものでした。
そのため、冒頭の会話で、隼人くんのお母さんは、「スナック」を「スネーク=へび」と勘違いし、息子が日本の幼稚園で「へびを食べてしまった」とびっくりしてしまいました。隼人くんの発音が、正しかったゆえに起きた誤解とも言えるでしょう。
ちなみに、日本語の「おやつ」という言葉を知らなかった隼人くんは、このとき初めてスナックの日本語がおやつであることを知りました。それまで、日本語でも、おやつは「スナック」だと思い込んでいたそうです。
おじさん「ガイジンさんは、どうしてる?」
娘たち「ガイジン違うよ、日本人とアルゼンチン人」
(アルゼンチン/4才と5才/女の子)
日本人が海外に行く機会が増加し、ますます日本人以外の人と結婚する人たちが増えてきました。いわゆる国際結婚です。そのカップルに生まれた子どもたちは、「ハーフ」、あるいは「ダブル(最新の表現)」です。ちなみに、アメリカでは「ミックス(mixed race)」、あるいは「biracial」という表現を使います。
日本人と現地の人との間に生まれた子どもたちのアイデンティティーは、繊細です。彼らの両親がどのようにその子どものアイデンティティーを根付かせたか、確立させたかによって、彼らの自分自身への受け止め方が変わるからです。
日本人とアルゼンチン人との間に生まれたのぞみちゃんとあみちゃんは、自分たちは「日本人でもあり、アルゼンチン人でもあり、両方の言葉を話し、それぞれの文化を伝授していることをたいへんラッキーでユニークだ」と認識しています。
日本人は、日本人っぽい顔立ちをしていない人に対して、「すべて外国人」とみなす傾向がありますが、彼女たちのような帰国キッズは、「ガイジン」という言葉に伴うニュアンスに差別的な要素が含まれていることを肌で感じています。というのも、「ガイジン、ガイジン」とからかう日本の子どもたちがいるからです。
のぞみちゃんたちが帰国している間、彼女たちのおじさんにあたる男性が、仕事帰りに毎日のように彼女たちの滞在先へ遊びに来ていました。ある日、「ガイジンさん(のぞみちゃんとあみちゃん)はどうしてる?」と、何気なく彼女たちに言いました。しかし、そのおじさんが何気なく使った「ガイジン」という一言に、彼女たちは敏感に反応し、非常に抵抗を感じました。そして、彼への彼女たちの返事に表れたのは、「(自分たちを)ガイジンとは呼ばないで。自分たちのルーツを日本人とアルゼンチン人であることを認めてほしい」との主張でした。
まだ幼稚園と小学1年生であるにも関わらず、このように、彼女たちがきちんと自分のアイデンティティーを表明し、二つのアイデンティティーに誇りを持って自己主張ができるのも、おそらくご両親が子どもたちのアイデンティティーに対して熱い思いを持ち、育てておられるからだと感じました。
「ぼくは行きました。渋谷へ」
「驚いてるのだ。すごく」(フランス/7才/男の子)
「今日ね、男の人が来てね、大きくてね、黒い服着ててね。」(フランス/8才/女の子)
帰国キッズは、よく「(頭の中では)何語で考えているの?」と尋ねられます。私も小さい頃、その質問をされ、どう答えたらよいか戸惑ったものです。当時は、「自分が何語で考えているか」などとは考えたこともなく、さらに、それがどのようなことなのかもよくわかりませんでした。しかし、今は何語で考えているかの判別ができるようになりました。なぜなら、日本語の文章の組み立て方に一つの大きな特徴があることに気づいたからです。
日本語の文章は、「最初に主語がきて、その後に述語」というパターンで組み立てられています。たとえば、「美奈子ちゃんが走りました」であれば、主語が「美奈子ちゃん」、述語が「走りました」にあたります。しかし、すべての文章や会話が、「主語の後に述語」という順序で成り立っているとは限りません。また、「行ったよ」、「返して」というように、日本語の会話では、主語を省いて話したりすることも多いですよね。
また、日本語では、動詞の前にそれを修飾したりする言葉がくるのがルールです。例えば、「僕は渋谷へ行きました」であれば、フランス語や英語では逆で、「I went to Shibuya.」となり、どこへ行ったかという「Shibuya」が述語の「went」の後にきます。
フランスで育ったマサヒロくんは、日本語で「僕は渋谷へいきました」と言うべきところを「ぼくは行きました。渋谷へ」と、日本語の文章の組み立てパターンとは逆で話していました。このようなことが何度も繰り返されたので、マサヒロくんのお母さんは、「マサヒロは、いつもフランス語で考えていたのでしょう」と話していました。
ミズホちゃんも同じくフランス語で考え、日本語に置き換えてから会話していました。形容詞が名詞などの修飾される言葉の後に続くパターンが特徴であるフランス語の影響により、会話は、形容詞をどんどんつなげていく形をとっていました。日本語とは逆です。ちなみに英語では、日本語と同じで「Red coat」 というように、名詞の前に必ず形容詞がつきます。
子どもの言葉の発達を考えると、二語文が出始めたときは、二人のように「電車、来たね」、「くま、怖いね」、「りんご、赤いね」と、目に入る対象(名詞)を先に発言し、それに伴う動詞や形容詞などが後にくる話し方がほとんどです。そう考えると、日本語よりもフランス語のほうが、言葉の成長という視点からみれば自然なのかもしれませんね。
帰国キッズが、どのように日本語で話すかを通して、キッズの育った国の言語の組み立て方が見えてくるとも言えます。しかし、このような独特な話し方も、帰国して数ヵ月もすれば消えてしまい、日本語で考える習慣が身に付いていきます。
「食べるゴムって知ってる?」(シンガポール/3才/男の子)
みなさんは、普段、ガムをかみますか? チューインガムの歴史は、明治末期ごろまでさかのぼるらしく、当時、日本では「人前で口を動かすのは行儀がよくない」ということから、あまり普及しなかったそうです。しかし戦後、アメリカ軍がさかんにガムをかんでいる姿がファッショナブルととらえられるようになり、一般化したようです。
アメリカ人の多くが習慣的にガムをかんでいます。なぜこれほどまでにアメリカでガムが普及したのか定かではありませんが、ガムを噛むと、イライラがおさまったり、緊張を和らげることができたり、精神状態の安定が図れると言われていますので、それだけアメリカは「ストレスが多いところ」なのでしょうか? また、口臭を気にしてガムを噛んでいる人も目立ちます。これはやはりキスの文化からきているのかもしれません。
日本人のガムをかむ頻度がアメリカ人と比べて低いのは、やはり文化が関係していると思われます。昔から日本では、「ものを食べながら話す」行為はマナーが悪いとされますし、ガムをかんでいる行為自体が「態度が大きい」「生意気」という印象を与えてしまう傾向もあるからです。
ガムはかんだ後、処理をしなければなりません。日本ではチューインガムの包み紙に必ずと言ってよいほど、「ガムは包んで捨てましょう」と書かれています。当たり前と思うかもしれませんが、日本のような配慮をしている国はさほどありません。多くの国でガムはぺっと地面に吐き捨てられています。その結果、町を歩くと、道路に黒い丸い斑点がずっと続いている、ということも多いのです。日本でガムをへらで一生懸命はがしている清掃担当者の姿を見ていると、胸が痛みます。
ガムを外で吐き捨てるという行為に耐えられなくなったシンガポールでは、ガムの販売・購入を全面的に国から排除し、法律でガムはかんではいけないと決めました。そのため、シンガポールで生まれ育ったまこと君は、4歳にして初めて日本でガムと出会いました。
彼が友だちに「食べるゴムって知ってる?」と聞き、「それな〜に?」と友だちがたずねたそうです。「ずっとかむものなんだよ」とまこと君が答えると、「それは、ゴムじゃなくてガムでしょ?」と指摘されるやり取りが続いたそうです。まこと君は、本当にガムという存在を知らなかったのです。
「いらっしゃいませって言われたら、なんて言うの?」
(アメリカ/4才/女の子)
あいさつはどの国でも交わされますね。知っている者同士のあいさつもあれば、面識のない者同士のあいさつもあります。日本では、道を歩いているとき、見知らぬ人に向かってあまりあいさつをしないという印象を受けます。特に都会ではその傾向は強いと感じます。
そんな日本ですが、お店では、その状況がまったく変わります。店員は店に入ってくるどの客に対しても、「いらっしゃいませ」と迎える訓練をきちんと受けています。これは、日本中のどのお店に行っても徹底しているように思えます。コンビニエンスストアでも、「いらっしゃいませ」と迎えられるのは気持ちのいいものです。
では、海外ではどうでしょうか? アメリカの場合、いくつかにやりとりは分かれます。
たとえば、若者をターゲットにしたブランド店では、"Hi, How are you?" と、客に対して声をかけます。そして、客は、必ずなんらかの返事をするのが常識です。"I'm good thank you."などと答えますが、この場合、店員は客と何らかの会話を求めています。
一般的なお店の場合、入店すると、"May I help you?" と声をかけてきます。これに対して無視をするのは失礼に当たるので、ただ店内を見ているだけであれば"Thanks, I'm just looking." と答え、サイズを探していたり、他の色があるかなど、店員に聞きたいことがある場合は、その質問をします。
日本と違って、アメリカでは、「話しかけてきた相手に対しては、決して無視をしない」ことがベースにあります。それは相手が店員であっても、尊敬(respect)があるからです。無視という相手の存在を認めないような行為は失礼とみなされます。
次に、日本の「いらっしゃいませ」の意味を考えてみましょう。これは「ようこそ、いらっしゃいました」、英語なら"welcome" の意味に当たるのではないでしょうか。実際の「いらっしゃいませ」に対する客の反応はどうでしょう? 日本人は、その言葉に反応を示さない、もしくは無視する人がほとんどではないでしょうか?
そのような違いから、「日本の客は、店員に対して、すごく偉そうにしている」という印象を帰国キッズは受けています。確かにそうかもしれません。日本では、客の存在は、お客「様」と言われるように、大変高い地位にあるように思えます。だからこそ、「いらっしゃいませ」に対して、何も答えなくても、店員に対してdisrespect (尊敬の意を示していない)ということにはならないのでしょう。
英語で、単に、"welcome to ●●store" と言われても、"Hi" くらいにしか答えようがないように思えます。つまり、「いらっしゃいませ」という声かけに対して、せいぜい会釈する程度の反応しかないのかもしれません。
しかし、日頃から会話が重要視されるアメリカで育った帰国キッズ・芽莉紗ちゃんは、日本に来てから、行くお店すべてで、店員から「いらっしゃいませ」と言われる度に、「何か言わないといけない」と思ったものの、なんと答えたらよいかわからず、とても戸惑い、お母さんの顔を見て「なんていうの?」と聞いたそうです。
たとえ子どもでも、彼・彼女なりに社会のルールというものを観察、把握し、自分の知っている世界では通常でないことに反応するのでしょう。
「ぼくはなにも悪いことしないのに」(アメリカ/7才/男の子)
どの国においても、そこに長く住んでいれば、常識としてみんなが知っていること、とらえていることがあります。そのため、他からうつってきた人は、その地域の常識をいち早く覚えなくてはいけません。これは住んでいる土地に限ったことではなく、学校という場所でも同じです。
日本の小学校では、どのような常識が存在するのでしょうか? それぞれの学校で違いはあるものの、外国から見ると、日本の学校特有のものがあります。たとえば、校内でうわばきに履き替えること、公立の学校のほとんどでは給食があること、掃除の時間が設けられていることなどです。そのため、海外から来た日本人の子どもにとっては、違うということがわかっても、その違いがどのような違いなのか理解できていないことがよくあります。
たとえば、掃除を例にとってみましょう。アメリカの学校では、床、トイレ、廊下などはjanitorという清掃専門のスタッフが担当しています。このjanitorの数もたいへん多いことに驚きます。生徒数が1200人近い学校には10人近いjanitor がいます。なぜアメリカの学校の生徒は清掃をしないかというと、生徒は学問を学ぶことを目的に学校へ来ているからという考え方です。それに対して、日本の学校は、生活の一部であり、授業を受け、勉強だけでなく生活の基礎を学ぶ場所でもあります。給食は栄養に関する教育の場であり、掃除においては、衛生・整理整頓を学ぶ場となっています。
アメリカで生まれ育ち、学校で掃除をしたことがなかった夏彦くんは、掃除の当番を言い渡されたものの、いったい何をしたらよいのか見当が付きませんでした。誰かからいつ何をどのようにすべきかを具体的に教えてもらえればよかったのですが、結局、彼は授業の後、さっさと家に帰ってしまいました。それを知ったまわりの生徒達が、次の日、夏彦くんに対して「掃除をさぼった」とさんざんとがめ、悪者扱いしてしまいました。そのようなことから、夏彦くんにとって日本の学校はとんだスタートになってしまいました。まわりから非難を浴び、心傷つき、家に帰った夏彦くんはお母さんに、「ぼくはなにも悪いことしないのに」となぜそこまで避難されたか理解できず、きつねにつままれたような思いだったようです。
夏彦くんは、さぼるつもりではなく、清掃当番と言われてもそれが、どこで、いつ、何をしたらいいことなのかわからなかっただけなのです。しかし、日本のお友だちとっては、掃除当番といわれたら、当然何をするのかわかっているもののはず、という思いがあります。
帰国キッズの場合、日本語を話し、日本人の顔をしているため、彼らがいったい何をわかっていないのか、なにを考えているのか、どのように日本の状況、常識に反応をしているのかについて想像が及ばないことがほとんど。そのため、このような誤解をきっかけに、お互いの理解を深めていっているのが現状です。帰国キッズを理解するのはなかなか困難ですが、日本の子ども達が彼らを理解しようとする姿勢が少しでもあれば、きっとそこには徐々に相互理解が生まれることでしょう。
「日本の学校ってなんて失礼なことをするの!」(ドイツ/12才/男の子)
日本では、まだまだ子ども達のプライバシーというものが権利として重視されていません。子どもは親の所有物という感覚を持った人もけっこういるように思えます。また、学校において子ども達は厳しい監督のもとにあるべきと考える風潮が強いように感じます。特に、中学校に上がるとその管理がいっそう強まっているのが残念です。
日本の小学校では、子ども達がマンガやお菓子を持ってきていないか、中学校では生徒がナイフやたばこなどを学校に持ってきていないかを調べる持ち物検査、あるいは所持品検査というのが一部で行なわれています。淳君の小学校では、「かばんの中に入っているものをすべて机の上に出すように」と指示が出たそうです。生徒のみなさんはこの検査をどのように受け止めているのでしょうか?
ドイツで育った淳君は、この出来事をプライバシーの侵害と受け止め、非常に反感を抱き、家に帰ると母親にその怒りをぶつけました(余談ですが、淳君の「なんて失礼なことをするの!」という表現からは、海外生活の間に母親から女性的な表現をいかに多く聞いていたかが伺われます)。また、淳君は、検査の実施自体に先生方が生徒達を疑っている表れと受け止めたようです。女の子であれば、生理用品に至るまでをクラスのみんなの前にさらさなくてはいけないことになるかもしれません。それは屈辱ともいえるでしょう。さらに、淳君は所持品検査が行なわれているときのクラスの空気が緊張に包まれていて、それが精神的苦痛だと訴えていました。万が一、ナイフなどの凶器が見つかった場合、先生はどのようなアクションを取るのでしょうか? そして、生徒たちはどのような気持ちにさらされるのでしょうか?
検査は、生徒一人一人を外に出して行なうのではなく、全員の前でやるので、持って来てはいけないものが見つかった場合は、その当人はクラスのみんなから見せしめにあいます。これは、「悪いことをしたら、人前にさらしてもよい」という解釈になるのでしょうか?
ここで私は、日本の恥の文化が頭をもたげます。所持品検査をみんなの前で行なうということは、やはり「恥を通して教訓を与える」という日本独特の考えだと思います。それに対してドイツや欧米では、「人前では決して叱らない」のが原則です。つまり、「恥をかかせることは、必ずしも教訓に結びつかない」という考えです。恥は別として扱い、むしろ行なってはいけないことが何であるか、そしてそれを改めるにはどうしたらよいかに焦点を当てるのが欧米のしつけの仕方といえます。
確かに、空港では所持品をすべて目の前で開けて、危険物がないことを検査します。しかし、学校は勉強をするところです。先生が警察官の役割を買って出るのではなく、あくまでも子ども達の心に寄り添い、教育をする立場の人間というのが私の考えですが、みなさんはどうお考えになりますでしょうか。
「わかった! どうして日本人がしゃがむのか」(アメリカ/14才/女の子)
“しゃがむ”という動作は、訓練が必要です。というのも、足の筋肉が強くないと、ひざを曲げたり、伸ばしたりすることができないからです。さりげなく行っている動作かもしれませが、実は日頃からこの動きを行っていないと、すぐにはできないというのをみなさんはご存知ですか?
東京・渋谷などの繁華街では、若い男性たちが足を開いてしゃがんでいる光景をよく目にします。私は、彼らが長時間そのような体勢を保っているのに驚きます。
日本では、学校の朝礼などで、先生の話を聞くときに立ったままでは疲れるからとしゃがむように言われることがあります。しかし、子ども達は「地べたは汚い」というイメージから、直接洋服のまま地べたには座らず、しゃがんでいることが多いでしょう。それに、体育の授業など自分の番が来るまで、徒競争で走った後に順位の旗の前で待つときなどにもしゃがんで待っていたりしますし、体育の授業や運動系のクラブ活動でうさぎ飛びをして足の筋肉を鍛えたりもします。また、掃除のときには、床や廊下にしゃがんで雑巾がけをすることもあります。学校生活では、意外としゃがむ機会があるのです。
学校以外の日常生活はどうでしょうか。日本では、まだ駅や学校のトイレなどでは和式トイレが設置されています。そこでは当然しゃがむことが要求されます。それに最近の家庭では、テーブル、椅子、ベッドという洋式の生活が定着してきていますが、ソファがあっても、その前のじゅうたんや床に座る人もいます。また、日本では家の中には靴を脱いでから上がるので、外に出るときは、玄関先で靴をはくために、やはり「かまち(框)に座る」という行動が必要です。それに、お風呂でからだを洗うときもしゃがんで体を洗います。このように、日本の生活では、直接床に座ったり、しゃがまなくてはいけない機会が多くの場面であるのです。
それに対して、アメリカはどうでしょうか? アメリカ人は、しゃがむという行為が生活の中にほとんどありません。「椅子から立ち、また椅子に座る」というのが基本。もちろん、トイレもすべて洋式です。さらに、最近のアメリカ人は太っている人が多いので、彼らは「前にかがむ」ということすら苦労しているのです。その点、日本人は痩せている人が多いので、しゃがむことはさほど苦ではないのでしょう。
アメリカから日本に帰ってきたあかねちゃんにとって、しゃがむという動作は見慣れていなかっただけに、その姿を目の当たりにしたときは、とても奇異に感じたそうです。そして、日本人の友だちが物を拾うときに、たやすくひざを曲げてしゃがむことにも気づいたといいます。というのも、アメリカ人の友だちは、何かを拾うときにひざを曲げず、前にかがんで手を伸ばして取ることが多かったからです。 その結果、あかねちゃんは「アメリカ人は腕が長いため、ひょいと手を下に下げるだけで物を拾えるけれど、日本人は背が低く、腕も短いため、しゃがまないと床の物には手が届かない」という結論に達しました。なかなか鋭い観察力です。
そうなのです。アメリカ人の腕は確かに長いので、洋服も袖が長いのが特徴です。しかし、足腰を鍛えるためには日本式のしゃがむ行為はとてもよいはず。そして、日本人の生活は、足腰を日頃から鍛える機会に自然と恵まれているといえるでしょう。
「学校のトイレはできないの」(スウェーデン/6才/男の子)
日本の一部の学校では、小中学校のトイレが問題になっています。というのも、学校のトイレを使えない子どもが増えているそうなのです。排便をするとバカにされる、それが怖くて学校のトイレで「ウンチができない」。特に女の子の場合、新一年生ですと「和式トイレだからできない」という意見もあるようです。
それでは、問題を解決するには何をすればよいのでしょうか? このような生理的現象に対して中傷する子どもたちへの教育なのか、それとも和式トイレを洋式化することなのか? それとも集合トイレという空間に問題があるのでしょうか?
スウェーデンで育ったつよし君も、日本の学校のトイレを使えない男の子の一人でした。彼はスウェーデンから帰国して日本の小学校に通い始めてから、家に帰ってくるなりトイレに飛び込んでいたそうです。その異変に気づいた母親が彼に状況を尋ねたところ、彼は「日本の小学校で男子トイレの個室に入ることはすごく勇気がいる」と伝えたそうです。その理由は、「排便できる環境ではないという印象を受けたから」でした。
つよしくんが通っていたスウェーデンの学校は、すべてのトイレが個室で、男子も女子も同じトイレを利用していました。日本のように一つの場所に便器が並んでいるということはなかったそうです。日本では休み時間になると生徒が一斉にトイレを利用しますが、スウェーデンではトイレに行きたいという生理的な欲求は個人個人で違うということが尊重されているため、あえてトイレの時間や休憩時間は設けられておらず、各自がトイレに行きたくなったら手を上げて部屋を出て行くというシステムでした。そのため、集合トイレは必要ないと考えられているのでしょう。
スウェーデンのある学校では、建物の入り口に個室のトイレが3つ程度あるだけでした。ドアは完全に上から下まで閉まるので、中は見えず、ウンチかおしっこかは周りにはわかりませんし、当然のごとく洋式トイレなので家と同じように使い慣れたスタイルで座って用を足せるのです。冬が長いスウェーデンではトイレの個室にも暖房が完備されていますので、寒さから早く出たい気持ちになることもありません。男の子でもゆっくりと用を足すことができます。
確かに、学校に行く前に用を足すということが理想的ですが、子どもの場合、必ずしもそううまくはいきません。そのため用を足すという生理現象に対して、大人も子どもも、もう少し理解を示さなくてはいけないと思います。学校でのトイレがストレスとなってしまったつよし君は、現在、排便を済まして学校に行けるよう体のリズムを調整しているようですが、行きたいときにトイレに行けるという環境が一番の理想でしょう。
「ひとりで開くよ」(アルゼンチン/5才/女の子)
「日本にあって、滞在国にないものは?」と、海外の子どもたちに聞くと、たくさんのものがあがります。
というのも、日本にしかないものがいっぱいあるからです。その中でも、日本の自動ドアに、多くの帰国キッズが驚いています。
日本の自動ドアは、タクシーから始まり、お店のドア、自動改札口、新幹線などの車両と車両の間の自動ドア、バスの乗降車扉、さらには、人が来るとセンサーが働いて自動的に動き出すエスカレーターや動く歩道など、外を歩けば、ハイテクを駆使したすぐれものの品評会のようです。
子どもや年配者にとっては、重いドアを自分の手で押したり、引かなくて済むのでとても楽ですね。
では、海外はどうなのでしょうか?
もちろん、海外でも自動ドアはあります。しかし、その数は日本と比べると少なく、稼動している時間や場所が限られているのが特徴です。
あみちゃんの住むアルゼンチンにも、自動ドアは存在します。スーパーの扉は左右に開きます。電車や地下鉄は自動で扉が開きます。バスは折りたたみ式のドアで、運転手が操作してくれるので、自動です。しかし、病院などのあってもいいはずのところに自動ドアがないこともあります。あるのは、回転式のドアか前に押すか引くかのタイプです。
また、タクシーの自動ドアは、海外では多くが手動です。
つまり、タクシーが止まったら、自分の手でドアをあけます。これは私の住むニューヨークでも同じです。そのため、日本人がアメリカに来ると、降りるとドアを開けっぱなしにして去ってしまったり、タクシーが止まってもドアを開くのを待っていたりします。
「タクシーのドアは必ず手で開くもの」と認識しているあみちゃんにとって、日本のタクシーのドアが勝手に開くのは、とても不気味であり、また感激でもありました。
それに、海外の自動ドアは、扉が手前に開いたり、入っていく方向に開くことが多いようです(アメリカやヨーロッパは、回転式のドアがけっこうあります)。これは開けっ放しになって冷たい外の風が建物内に入ることを防いでいます。つまり、気候の違いと関係してきます。
それに対し、日本の自動ドアの多くは、横に開く開き戸タイプです。それらを考えると、日本は限られた土地を有効活用するという特徴が表れているのがよくわかります。さらに、日本の場合、「豊かさ」と関係しているといえるでしょう。
というのも、外国の場合、人口の少ない地域では、「利用者の少ないエスカレーターはお金の無駄」という考えがあるからです。それに、これらの国では、自動ドアの役目を人が思いやりで補っているのを感じます。なぜなら、ドアを開けられずに立っていれば、必ず誰かが助けてくれるからです。
このように、人間の行動や土地の利用、人口の割合、経済的な豊かさなど、ドアひとつからでも、日本と海外それぞれの様子をうかがうことができるのです。
「日本にはいろんなマッシュルームがあるね」(アメリカ/10才/女の子)
日本の食文化は一種独特です。それは、日本の土が多くの栄養分を含み、豊かなところからきているのでしょう。「土地が肥えている」とも表現しますが、それは日本の雑草の生え方からもうかがえます。土地が肥えているということは、作物がよく育ち収穫ができる、たいへん恵まれているということなのです。それは、おそらく日本が水が豊かで、気候が高温多湿というのも手伝っているのでしょう。
さらに、日本は国土の70%が山林で、また海に囲まれている島国なので、山菜や魚介類などの山の幸、海の幸にも恵まれています。山菜といえば、わらび、ぜんまい、たらの芽、ふき・・・、とこれまた種類の多いこと。そして、きのこ類は、店頭で常時見られるものだけでも、しいたけ、しめじ、えのきだけ、なめこ、まいたけ、ととても豊富です。きのこを表す際、単にきのこという総称は使わず、しいたけ、えのきだけというように、それぞれの名前で表すのが日本では一般的ですね。
それに対して、他国はどうでしょうか? 実は外国では、きのこと言えばマッシュルームを指すのが一般的なのです。しかも、種類は一種類のみというところがほとんどです。
そもそも、世界中でもきのこが成育するところは限られています。砂漠には生えませんし、乾燥した地域では育ちにくいでしょう。そのため、きのこが成育しにくい国では、ハウスなどで人工的に栽培されたマッシュルームしか一般家庭には行き渡らないのです。
さらに、きのこというと「毒」というイメージが強い国があります。そのような国では、たとえ地面にきのこが生えていても、日本人のように「食べられるだろうか?」といった発想はまずありません。おそらく、昔の日本人も毒キノコの危険性は知っていたでしょう。けれど、これほどのきのこが世に広まったのは、先祖たちの勇気、あるいは好奇心からチャレンジした結果とも言えるかもしれません。
ちなみに、きのこ好きの国民といえば、旧ソ連を中心とする東欧諸国、北欧、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、中国が挙がります。そして日本はといえば、世界でもダントツにきのこ好きに含まれるそうです。
アメリカから帰国したカレンちゃんにとって、アメリカ滞在中、きのこはマッシュルーム一種類しか知りませんでした。しかし、日本のスーパーに行き、しいたけをはじめ、なめこ、まいたけ、しめじ、まつたけ、えのきだけ・・・、と並んでいて、その種類の多さにびっくり。パックを手にとり、珍しそうにながめていたそうです。日本は、きのこ一つとっても種類に恵まれ、その点においても豊かな国といえますね。
「おじいちゃん、スープ(味噌汁)を飲むのに、音たてちゃだめだよ」
(アメリカ/4才/女の子)
「日本の常識=世界の非常識」といわれることがあるように、日本では当たり前、常識といわれているようなことが、一歩外へ出ると、非常識、無礼に当たることがあります。“郷に入ったら郷に従え”というように、私たちは外国に住む場合、その国の人たちの習慣に合わせ、失礼でないように気を遣います。なぜなら、マナーを知らなかったためにとんでもないことが起こる場合もあるからです。相手に不快な思いをさせてしまい、知らぬが仏では済まされないこともあるのです。
たとえば、日本では汁物を飲むとき、お椀をテーブルから持ち上げて、直接口をあてて飲むことが多いと思います。親は小さいときから子どもに、「ちゃんとお茶碗を手に持って食べなさい」と指導していますから、味噌汁にしても、お椀を直接口元に持っていってそこから飲みますよね。もちろん、具ははしですくいますが・・・。
ラーメンにおいては、どんぶりが大きいので、レンゲというスプーンがついてきます。それでスープをすくうので、どんぶりを持ち上げることはあまりないかもしれません。一方、そばやうどんのどんぶりはさほど大きくないので、直接どんぶりを持ち上げて、そこから汁を飲む人もいます。
そば、そうめん、うどん、ラーメンといった麺類を食べるときは、『すする』といわれるように、独特な音を出しながらいただきます。この音があるからこそ、麺類を十分に味わい、楽しめると言えるでしょう。それは、落語家がそばを食べるときのジェスチャーや表情、音に表れていると思います。
しかし、欧米諸国では、まずテーブルに置かれた平らなお皿はもちろんのこと、スープ皿、多少底が深めのものでも「皿を持ち上げることは行儀が悪い」とされています。持ち上げてよいのは、せいぜいコーヒーカップくらいです。さらに、スープ、つまり汁物を飲むときに音を出すことはとんでもない、非常識、無礼とみなされます。特にアメリカでは、スープを飲むときは上手にスプーンですくって音を立てないようにするのがマナーです。音を立てると貧乏人、教養のない人と受け止められてしまいます。
海外で育つ子どもたちは、食べるときや人と話すときのマナーなど、現地での文化を身に付けていきます。あやねちゃんはアメリカで、スープを飲むときは、「スプーンで上手にすくって音をたてずに飲むように」としつけられてきました。そのため、日本に帰って、おじいちゃんが味噌汁を飲む際、スプーンも使わず、直接お椀から飲み、さらにすごい音をたててすすったので、目を大きく開いて驚いたそうです。そして、たまりかねて、おじいちゃんに「スープを飲むときは音をたててはいけない」と注意したそうです。もちろん、あやねちゃんとしてはおじいちゃんに正しいことを教えただけと思っていましたが、あやねちゃんのご両親は、年輩のおじいちゃんにそのような指導をした娘を見て、非常に恥ずかしかったそうです。
とはいえ、日本では安心して、遠慮なく音をたてて食事をおいしくいただけるのですから、帰国したあやねちゃんのご両親とっては緊張が少なく、ほっとしているのかもしれませんね。
「わかった! 日本人が小さいのは日本(の国)が小さいからなんだよね。
だからアメリカ人は大きいんだ。」
(アメリカ/8才/女の子)
一歩日本を出ますと、国によって人々の体のサイズがかなり違うことに気づきます。一般的にアジア人は小さく、それに対して、大陸に住む人たちは体が大きいのが特徴です。特にヨーロッパでは、とても背が高く、がっしりとした骨格の人たちに出会います。
私たち日本人は、やはり世界の中でも小さい部類に入ると思います。それでも戦後、食生活の変化などによって、平均身長が10センチも伸びました。遺伝的な要素のほか、食べているものや生活様式の違いなどがやはり影響しているようです。日本人女性の平均身長は158センチ、男性は172センチ。ちなみに、世界に目を向けてみると、お隣・韓国人は、日本人より平均して2〜4センチ、ドイツ人は10センチ、アメリカ人は4センチ高いようです。また、世界で最も身長が高いといわれるオランダの場合、日本人より平均10〜12センチの差があります。
さて、みおちゃんが住んでいたアメリカは「人種のるつぼ」と言われています。背が高い人もいれば、低い人もいます。そのため、平均すると日本より4センチ程度の差となるのでしょう。しかも、アメリカ人の場合、近年肥満傾向が強く、横に大きくなっていますので、日本人は背が低いだけでなく、とても痩せていて、小さく映ってしまうのです。
子どもは、物事をとても正直に、そして単純明快に捉える傾向があります。それがなんとも子どもらしく、特有のかわいさにもつながるのですが・・・。みおちゃんは、小さな頭で、なぜ身長の差があるのか、その理由を考えた結果、「日本という国は小さいから、そこに住む人々は小さいのだ」と結論を出したようです。その半面、「アメリカという国は大きいから、そこに住む人々もからだも大きくなるのだ」と考えたのでしょう。なんとも微笑ましい分析でした。
そういえば、こうすけ君の家にホームステイにきたオーストラリアの青年は、部屋に入るのにおでこをぶつけたり、スリッパが小さくて入らなかったり、フォークやコップなど、なにもかもが小さくて「不思議の国のアリスになった気分だ」と語っていたそうです。そこでこうすけ君は、「日本でなんでもサイズが小さいのは、そこに住む日本人が小さいからだ」と断言し、結論づけていました。確かに一理あるかもしれません。私たちを取り巻くあらゆるものはまさしく、日本人のサイズにあった設計になっているのでしょう。車の大きさ、調理台の高さ、トイレの高さ・・・。どれをとっても日本人サイズです。皆さんの周りにある日本人サイズはなんでしょうか?
「日本に着いたらエンパナーダ買ってね!」
(アルゼンチン/5才/女の子)
小さな子どもにとって、自分が慣れているものを口にすることはある意味で、安心でもあります。子どもがぐずったときに、一口サイズに切ったりんごをちょっとあげたり、スライスしたバナナをあげたりすると、機嫌を取り戻すことがあります。アメリカでも小さな子どもが泣きべそをかいたときに、棒のついた飴、これをロリポップといいますが、それを与えると泣き止むとも言われます。さらに甘みは心を癒す要素を持っているのかもしれません。
さて、日本では子どものお菓子と言うと、たまごボーロ、サラダのおせんべいなどが代表的でしょうか。外出するときに、小さなタッパーにつめて、出かけるときの必需品として子どものリュックに入れたりするでしょう。アメリカでこの日本のたまごボーロにあたるのは丸い形をし、赤ちゃんでも容易に指でつまめるシリアルかもしれません。ドイツやオーストリアでは子どもの顔ほど大きなプレッゼルという一本の長い固いパンを編んだものをしゃぶっていました。インドネシアやマレーシアの南国では何と言ってもフルーツです。このように国によって、外出時のスナックはいろいろです。
アルゼンチンではエンパナーダが有名です。これは子どもたちのスナックの代表とも言えます。ひとことでエンパナーダを表現すると、「餃子風ミートパイ」ともいえるでしょうか。ちょっと硬いパン生地のような皮にひき肉、オリーブ、玉ねぎ、トマトなどを入れます。家庭によって中身はちょっと変わります。
アルゼンチンで生まれ育ったのぞみちゃんは、日本に向かう途中、食べなれない機内食、そして異国の地へ向かうにあたって、心の中は不安であったのかもしれません。そんな時に思い出したエンパナーダ。きっと彼女にとって、それは心のよりどころだったのかもしれません。これから訪れるさまざまな不安に対して、ちょっと安心できるものだったのかも。そのため、日本にもエンパナーダが当然あるだろうと確信していたのぞみちゃんは、「日本に着いたら、エンパナーダ買ってね」、と母親に確認したそうです。しかし、お母さんは心の中で「売ってないよ!そんなもの!」。子どもにどう答えたらよいか、一瞬戸惑ったようでした。
帰国キッズはとかく「自分が育った国にあるものが日本にはない」という感覚が備わっていません。つまり、日本は単に自分が育った国の延長上にしかないという感覚です。そのため、このように滞在国には当然あるものなのだから、日本にも当然あるだろうという感覚でいます。特に、心のなぐさめとなる食べ物の場合、それがないと知ったときにパニックに陥る子どももいるほどです。親としては、このような事態に備えてしっかりと心の準備をさせておかないといけないのかもしれません。しかし、いったいどこまで予防線を張っておくかはむずかしいところがあります。
「日本に帰ったらお留守番するって本当なんだね」
(アメリカ/7才/男の子)
子どもがひとりで家にいる状態を、日本では「お留守番」といいます。大家族があたり前であった時代には、おばあさん、おじいさんなど、誰かしらいつも家にいて、家を空けること、つまり留守にすることはあまりなく、留守にする場合は必ず誰かしら、留守番という形で存在していたのです。そのような大きな家では鍵がなかったりと、家を空けることはあまりなく、家を守る人はたいてい主婦でした。そのようななごりから、子どもを家においておく行為を「留守番」と名づけたのではないでしょうか? 留守番といえば、家を守るということで聞こえはいいのですが、それは単なる建て前の表現かもしれません。
それを裏付けるように、アメリカでは「留守番」という言葉が子どもたちには当てはまりません。一番近い言葉は"Home alone" という言葉でしょう。それは子どもがひとりさみしくというネガティブな印象を与える言葉です。アメリカでは小さな子どもを家に置いて、番をしてもらうという建て前的な感覚はなく、単に正直に子どもを連れて行くことができず、そのため家に置いておくということなのです。
それでは具体的にアメリカでは、子どもを一人で家に置いておくことに対してどのように受け止められているのでしょう? アメリカでは、まだ緊急時に責任をとれない子どもを一人にしておくことは、親の責任放棄と見なされています。そのため、年齢こそはっきり提示されていないものの、その子どもの精神年齢、環境などから、何歳ならこのくらいは大丈夫でしょう、というガイドラインがあり、それからするとだいたい12歳以下の子どもはひとりにさせておくことをしてはいけないといわれています。
しかし、日本とアメリカでは状況が違います。アメリカは地域によってはとても治安が悪いのです。またベビーシッターを雇いやすい環境もあります。さらに放置される子どもが多いことから、児童福祉事務所の職員の人たちは目を光らせています。また、日本ではお留守番ができるようになることを成長のひとつとして捉え、小さいうちから訓練させる傾向があります。子どもが幼稚園の年長さんあるいは小学校に上がったあたりからは、もう一人で留守番をさせるのは一般的になります。中にはちょっとそこまでと言って、20、30分ほどなら3、4歳児の子どもでもテレビを見させて留守番させている親もいるほどです。
このような背景から、ダイスケ君は日本に帰ったらお留守番をしなくてはいけないといわれていました。しかし、アメリカでは決してひとりで家にいることはなかったので、留守番に対してはかなり不安を抱いていました。そして、帰国してから、まわりのお友だちが留守番をしている様子を見たり、聞いたりしているうちにこれが現実であり、信じられなかったことが本当だったのだと自分に言い聞かせています。さらに留守番ができることはむしろ誇りに思えるべきことだと確信したようでした。
日本も治安が悪くなったといわれるものの、まだ5歳児がひとりで外を歩いたり、留守番ができるのも、まだ安全な国であるという証拠でしょう。
「私はお米の食べられるアメリカ人なの」 (アメリカ/5才/女の子)
「私はイギリス人だと思ってた」(イギリス/12才/女の子)
海外で育ち、帰国した日本人の子どもたちは「自分が何人であるか」という壁に、多かれ少なかれぶつかります。日本人の両親をもつ子どもたちは、日本人としての容姿であるにもかかわらず悩みます。また、小さな子どもほど、現地の人間に化してしまう傾向が強いのは事実です。
たとえば、イギリスで3才から12才まで過ごしたみどりさんは、日本に帰国するまでずっと「自分はイギリス人だ」と思っていました。そのため、帰国後、日本人だと知らされ、大きなカルチャーショックを受け、日本の生活になかなか馴染めず、つらい思いをしたと語っていました。
また、麻由ちゃんは自分がアメリカ人だと自覚していました。そして、アメリカ人はパンを主食とする国民で、日本人は米を主食とする国民だと理解していました。しかし、自分はアメリカ人であるにもかかわらず、パンを主食とする一般的なアメリカ人のカテゴリーには入らないことに気づき、日本人のようにお米を食べることへの矛盾を、自分にどう言い聞かせたらいいのか模索していました。そこでたどりついた結論は、自分はアメリカ人だけれども、お米を食べられるアメリカ人ということでした。お母さんは麻由ちゃんの、前向きに解決しようとする姿勢に感心していました。
帰国キッズは二つの文化をもち、バイリンガル、バイカルチュアルともてはやされ、多くの日本人はうらやましいといいますが、当の本人は、そのバランスをいかに保つかという課題に思いのほか悩んでいます。一方の文化を好み、もう一方を嫌いになってしまう子どももいます。またどちらの文化も受け入れなくなる子どももいます。両方の文化を自分のアイデンティティーとして受け入れられる子どもはラッキーと受け止められがちですが、それが理想とはかぎりません。しかし、どれを選択しても、本人が納得すればそれでいいのです。そしてそれは、ときに変化してもかまわないのです。たとえば日本での滞在が長くなるにつれ、日本人としてのアイデンティティーが70%に伸びても、それでいいということです。成長する過程で、自分のアイデンティティーを確立し、その時々で自分のアイデンティティーに自信と誇りをもてれば、それに越したことはないでしょう。しかし、そこにたどりつくまでは長い道のりです。
このようなアイデンティティーの悩みに、帰国キッズは小さいころから生涯にわたってぶつかります。まわりはなかなか想像がつかないものですが、一度キコク、一生キコクというほどです。アイデンティティーについては悩みがつきないようです。
「日本のいいとこ? 日本語の勉強しなくていいこと〜!」
(アメリカ/8歳/男の子)
日本に住んでいる子どもたちと海外で育つ日本人の子どもたちとの大きな違いは、海外で育つ子どもたちの多くが、日本語の勉強にとくに力を入れているということです。それは、いずれ日本に帰り、日本の教育システムに戻るからです。海外でも日本人学校に通っている子どもたちは、日本語だけに集中することができます。しかし、国によっては日本人学校がなかったり、あったとしても、通える距離にないということがあります。また、親の教育方針で海外の日本人学校へは入学させず、現地の学校、あるいはインターナショナル系の学校へ入学する子どもたちもいます。このような子どもたちは現地の学校に通い、その国の言語、あるいは英語を学び、さらに自宅に帰ってから日本語の勉強をしています。
具体的には、海外の主要都市で日本人が多く駐在しているところでは、日本の塾が進出しています。幼児から高校生まで塾に通っています。シンガポールでは、塾がスクールバスを出しているほどです。また、アメリカなどでは母親が車で子どもたちの送り迎えをしています。そして、次に多いのが日本語補習校です。補習校はたいてい現地校がお休みの土曜日に開かれています。日本語補習校がない地域の子どもたちは、日本からの通信教育を受けています。その他にも、日本から取り寄せた教材や日本の本、ビデオ、DVDをもとに、各家庭で日本語に触れる機会を設けています。
しかし問題は、日本の実態をとらえることができないだけに、多くの親は必要以上に子どもの日本語教育に拍車をかけてしまうことです。子どもたちは現地校から帰ってきて、精神的にも肉体的にも疲れているにもかかわらず、現地校の宿題、家庭教師との勉強、塾、日本語補習校の宿題、おけいこごと…とこなします。また、日本語補習校は土曜日に開かれているので、補習校に通う子どもたちは、どうしても現地の子どもたちが土曜日に行っている活動には参加できません。それでも両方をこなすということは、ほとんどの子どもたちにとって精神的にもかなりの負担になるので、中には円形脱毛症など、からだが悲鳴をあげる子どももいます。それでも海外在住の親たちは、帰国したときの遅れ、いじめなどを気にして、子どもたちの日本語教育に力を抜きません。
バイリンガルであること、ふたつの言語を理解し、自由自在に話せることはとてもすばらしいことです。世界が広がることであり、将来の人生においてオプションがふえることでもあります。しかし、その背後には子どもたちの絶えまない努力と涙が隠されているということを忘れてはならないと思います。とくに小さな子どもたちは、どうしてそこまで勉強しなくてはいけないのか、本当のところは理解できません。それにもかかわらず、親の期待に添うように子どもたちはけなげに日本語の勉強に励んでいます。
それだけに、日本に帰ってきてから「日本のいいところはなに?」と聞かれたときに、テルマサくんは正直に「日本語を勉強しなくていいところ」と本音を語ったのでしょう。このひと言が、海外での日本語の勉強がいかに大変かを語っています。多くの帰国キッズの目には、日本はもう学校の勉強だけをすればいい「ほっとするところ」に映るようです。海外在住の親たちは、このひと言の重みをしっかりと受け止めなくてはならないでしょう。
ノーラ・コーリ
海外出産・育児コンサルタント、国際医療ソーシャルワーカー、カウンセラー、バイリンガルコンサルタント、医療専門通訳などいろいろな顔を持つ。東京で生まれ、小学校はアメリカ、中学は日本、高校、大学はカナダ。1993〜1998年までシンガポール。2001年よりアメリカのニューヨーク在住。2004年 コロンビア大学大学院 社会福祉学部 修士課程 終了。一男一女の母親でもある。
著書に、『愛は傷つけない−DV・モラハラ・熟年離婚:自立のためのガイドブック』(梨の木舎)『海外で安心して赤ちゃんと産む本』『海外で安心して子育てをする本』(ジャパンタイムズ)『海外で暮らすためのとりあえず英会話』(NOVA)『使用人との上手なつきあい方』(ケアワールド)『英語のできる子どもに育てる』(ジャパンタイムズ)他。
●ノーラ・コーリさんのホームページ「ケア・ワールド」
http://www.caretheworld.com/